自由のドア

島根、ローカルジャーナリズム、ときどき鉄道

退職のご報告

15年勤めた地方新聞社を9月末で退職し、新しい道を歩むことになりました。

素晴らしいご縁に恵まれ、夢中になって取り組んだ仕事でした。ずいぶん無茶もしたし、ご迷惑もかけました。何とか続けることができたのも、社内外、多くの方々のご指導、ご協力、叱咤激励があったからこそだと、感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました!

基本、前のめりwで、あまり過去は振り返るのは好きではないのですが、二度とない機会でもあり、少し長めに振り返ってみたいと思います。(写真は昨日、社内の先輩からいただいた花)

日本の天平時代の仏像に恋して、ひたすら寺まみれだった大学時代。美しくて静謐な世界は気にいっていたけれど、学芸員実習を終えたある日、しゃべらない仏像に物足りなさを覚えました(不敬?ですみません…)。「やっぱり、相手にはしゃべってほしいし、私もしゃべりたい!!」。「モノ」ではなく「人間」を相手にする仕事に就こう。いきなりの方向転換。人間相手=記者、と単純な発想で、全国紙やテレビなどマスメディアを目指して就職活動をしました。

時代は超氷河期。地元の新聞社に採用されました。ここだけの話、最初こそ、全国紙に転職しようと若気の至り全開な感じでしたが、日々の仕事の中で、大好きな島根で、大好きな人々のことを想って働ける喜びに目覚めました。全国紙に行きたいと思っていたのは「ブランド」に憧れていただけだったんだな、と。(注:私の場合であり、全国紙を否定しているわけではありません!)

昨日、これまでに書いた署名記事を社内データベースで検索してみました。255本ありました。多いのか少ないのかまったくわかりませんが…

ドメスティック・バイオレンス(DV)をテーマにした「密室の悲鳴」、島根大と島根医科大の統合問題、小泉政権時代の国会議員ドキュメント「バッジの重み」、郵政民営化問題、地域の医師不足問題を追った「医変」、大橋川改修事業、東京勤務で間近に見た政権交代、UIターン企画「移住新時代」、一票の格差問題、そして、竹島尖閣をテーマに琉球新報との合同企画「環(めぐ)りの海」、松江市教委のはだしのゲン閲覧制限問題から現代社会を考えた「自由の風景」

ざっと上げただけですが、思い入れのある連載、テーマがたくさんありました。それだけ、思い入れのある人に出会ったということでもあります。

相手の志や生き様に、激しく共感したり、胸を打たれたり。「これは伝えたい、伝えなければ…!!」と突き動かされるように書いた記事も多く、そういう方々に出会えたことを、何より幸せに思います。その一人が、このブログにも何回か登場している、がん医療の充実を訴え続けた三成一琅さんでした。心意気に、人柄に、惚れていたし、「がんと生きる」という連載を通して、三成さんという人を伝え、記録できたことを誇りに思います。

原稿が思うように書けない。取材がうまくいかない。ミスをして訂正記事を書いた。落ち込んだとき、苦しいとき、悔しいとき、たくさんありました。それでも、結局、取材に出掛けて、地域の人たちから話を聞くことが、一番の回復薬でした。どれだけたくさんのエネルギーをもらったことか。外にもたくさんいる仲間たちにも、ずいぶん助けられました。喜びを分かち合い、逆境でこそ力になってくれた、一人ひとりの顔が浮かびます。

そうそう、三成さんに加え、私の中で勝手に「私が愛した男たち」と名前をつけている人が5人いまして(おじいちゃんばかりですが)それはまたいつか紹介したいです。

大好きな島根を拠点にした、ジャーナリストでありたい

おっと、脱線しました。上にあげた連載のうち、「医変」は2008年ファイザー賞大賞、環りの海は2013年新聞協会賞をいただきました。2つともチームでの受賞ですし、取材で協力してくれた方々はもちろん、いい仲間たちと一緒に取り組めたからこそでした。

若いころから、「やらない後悔よりやった後悔」とがむしゃらで、生意気ばかりで、不愉快な思いをさせたことも多々あったと反省しきりです。それでも、広い心で見守ってくれた上層部の方々、厳しくあたたかく指導してくれた上司、ともに切磋琢磨した同僚、支えて応援してくれた後輩。

たくさん、一緒に笑って、泣きました。前例がないことにもチャレンジさせてくれる、社内の素晴らしい環境に助けられました。感謝してもしきれません。念願の東京支社への転勤もかなえてもらいました。ご恩は必ず、どこかで、お返ししたり、送ったり、したいです。それに、特に、同期のつながりは深く、最高の仲間でした。

今回、ちょっとした行動や一言に心遣いが感じられて、涙が出そうに嬉しくなる(実際泣いた)ことが、社内外通じて多々ありました。私も、他人の喜びや痛みを想像し、そんな気配りができる人になりたいと、強く思いました。

今後は、まだあまり決まっていないのですが、とにかく、何か新しいチャレンジをしていきたいと思っています。原点である、大好きな島根を拠点にしたジャーナリストでありたい、というのは、変わらないつもりです。道なき道にも思えますが… まだまだ力不足で、悔しいことも多く、もっともっと、学んで、トライ&エラーをしたいです。

ただでさえ、メディア、ジャーナリズムは、激動の時代です。もちろん大変だし、不安も大きいけれど、こんな面白い時代にジャーナリストができる幸せをかみしめ、歩んでいきたいと思います。設立時から関わっている一般社団法人・日本ジャーナリスト教育センター(JCEJ)の活動も、続けます。

面白いこと、新しいこと、大好きです。一緒に何かやろう!というお誘いありましたら、ぜひぜひ、何でも、お気軽に、お声掛けくださいませ。お待ちしております^^ 冒頭、前のめりと書きましたが、昔の座右の銘が「ふりむくな ふりむくな 後ろには夢がない」(寺山修司)でした。さすがに、年齢も重ねてきたので、突っ走るだけではなくて、周りもみながら、持続可能なペースを心掛けないとね。

勢いで、書いてみました。地味に細々とやっていたブログやツイッター(@terumism)、フェイスブック、もう少し、いえ、もっと、発信していこうと思いますので、ご指摘やアイデアいただいて、一緒に、新しい何かを、つくっていってもらえると嬉しいです。引き続き、ご指導ご鞭撻、よろしくお願いいたします!