自由のドア

島根、ローカルジャーナリズム、ときどき鉄道

「失う」ということについて

まとまっていませんが、ずっともやもやしていて整理がつかないので、筆のおもむくまま書いてみます。「失う」ということについて。

浜田真理子さんがコラムで書かれていますが、地元の今井書店でいつも私の著書のポップをつくって全力で応援してくれていた、大切な仲間の一人の松本邦弥さんが急逝しました。5日に開催した今井書店でのサイン会も企画調整してくれていたので一時は開催できないかと思いましたが、今井書店のスタッフの皆さまが力を合わせてサポートしてくれてなんとか実現できました。恩人が駆けつけてくれて、10年ぶりに再会することができました。サイン会のおかげです。ありがとう。当日松本さんにお礼を言って、笑顔を見たいのに、もういないことに愕然として。もう一度お礼が言いたいです。

 

マリコのご機嫌さんで 演奏会翌朝、仲間が急逝


そんなことを思い出して、さめざめと泣いていたら、失うことについて書かれた人生相談を見つけて、なんだろう、ほんの少しだけど、心が救われました。いや、救われてないな、考えさせられました、くらいか…

 

人生相談 別れた人と仕事継続、切ない=回答者・高橋源一郎

一部抜粋。

>>
少しずつ薄れてゆくこととしても、あなたの内側から、その痛みが消え去ることはないと思います。それは「失う」ことの痛みです。あなたは、人生の半ばを過ぎつつあります。人生の先輩として、少し書かせていただくなら、これからあなたはいろいろなものを失ってゆくことになるでしょう。パートナーを失うことはその始まりにすぎません。

若さを、美しさを、健康を、感覚の鋭さを、あなたは失ってゆくでしょう。では、それは、耐えられない苦しみしか生まないのでしょうか。
>>

あと、来春には大好きな鉄道、しかも地元のJR三江線廃線になること、これが現実味を帯びてきて、三江線を失うことをどう受け止めたらいいのか、やっぱりまだ受け止めきれなくて、あと、次元は違うけど、可愛がっていた熱帯魚も急に亡くなってしまって、失うということが妙に響きます。何かを愛すると、失ったときにつらい。

人生無常だと昔から思うようにしていて、だからジャーナリストとして記録するという役割があるのだと、失うことについてもあまり感じすぎないようにしていたつもりなのですが、パンドラの箱的な何かというか心の中で何かが変わりそうで、なんとなく怖いなとも思っています。

もう二度と、地元でローカル線をなくしたくないと、いまはがむしゃらに、JR木次線の活性化に一生懸命です。人口減少時代のローカル線は厳しくて、簡単ではないことはわかっていますが、でも二度と、三江線で味わったような思いを味わいたくないのです。なんか往生際が悪いな、かっこわるいなと、心のどこかで思う私もいますが、でも、やらずに諦めたくない、後悔したくないと、ついやってしまっています。

なので、この前の木次線Tripや、今月も21、22日に木次線三江線ローカル線の秋旅ツアーをします。2月11日には、木次線のフォーラムをチェリヴァホールでします。なんだか、何の話を書いているのかわからなくなりましたが…うーむ。

後半の人生相談の中にも書いてあるように、失うということと痛みをそれなりに受け入れながら、私も何かをつくり出すことができる日がくるのだろうか。