自由のドア

島根、ローカルジャーナリズム、ときどき鉄道

ダメなものをダメと言ってもらえる意義について

今日のテーマはダメなものをダメと言ってもらえる意義について、です。最近、やたらと、悔しかったイベントの話題が出てきていると思うのですが、ホントに悔しかったわけですが、一方ですごくありがたいなと思っています。

振り返って見ると、私も原稿やそのほかのアウトプットについてちゃんとダメだと言ってもらえたから何くそーと思ってがんばってきました。ダメだと認識するところから成長が始まるというか、その認識に立てなければ成長のスタートラインにも立てないとというか。ダメだったのに「がんばったから」とプロセスに逃げるとか「まあよかったんじゃない」的に誤魔化していたのでは、次も同じ事を繰り返すだけですよね。だから、ダメさをきちんと認識した上で、原因究明と二度と繰り返さない対策を立てることが大事なのかなと思っています。

今回のイベントのことも、藤代さんにさんざんダメ出しされて、そうだなあ、この前のブログでは書けなかったのだけど、一番響いたのは「島根の小山の大将でいたらダメだ」と言われたことでした。ローカルジャーナリストとして、島根のことには長けたいと思っていますが、それだけに安住していると、井の中の蛙、というか、島根の中だけで満足してしまいかねないです。一番痛いところを突かれたような気がして、悔しくて悔しくて、泣けてきて、なかなか書けませんでしたが、まあ書きます。乗り越えたいし、乗り越えないといけないし。

実は、日経グローカルの原稿でも、つい先日、ダメ出しを初めてされました。原因とどうリカバーすべきか、考えているところです。こちらも、フリーとしては品質管理はとても大事なので申し訳やら情けないやらで、それはもちろん前提とした上で、指摘してくださったことがありがたくて、感謝しています。さて、どうしよう!!!



(写真一枚くらいあった方がいいかなと付けただけです。表参道のバー)