自由のドア

島根、ローカルジャーナリズム、ときどき鉄道

知らないことは、加担していること 〜 映画「標的の村」

沖縄を舞台にしたドキュメンタリー映画「標的の村」を見てきました。ずっと見たくて見たくて、でも、見れなくて。松江で上映されるという機会があり、ようやくでした!

印象に残った場面は、たくさんありますが… 中でも、これまで知らなかったことが恥ずかしくて、悔しくて、心に響いたことを大きく2つ上げます。

1)SLAPP(スラップ)訴訟=Strategic Lawsuit Against Public Participation(直訳:市民の関与を排除するための訴訟戦術)
国策に反対する住民などを国が訴えるような、権力側による報復的な訴訟のことで、アメリカでは多くの州で禁止されているそうです。が、日本には、この概念が浸透しておらず、この映画で紹介される、オスプレイ配備に抗議して座り込みをした沖縄・高江地区の住民を「通行妨害」で訴えた例は、これにあたるそうなのです。

こんなことはひどい…!とうち震えたわけですが、この映画をみるまでは、スラップ訴訟の存在も、高江地区の住民が訴えられたことも知らなかったわけで。

(参考)
「公に意見を表明したり、請願・陳情や提訴を起こしたり、政府・自治体の対応を求めて動いたりした人々を黙らせ、威圧し、苦痛を与えることを目的として起こされる 報復的な民事訴訟のこと」(スラップ訴訟情報センター

2)沖縄の人がなぜあそこまで強硬にオスプレイ配備を反対したのか
沖縄の人々が、オスプレイ配備を強硬に反対していたことは知っていましたが、それは主に安全性の問題、つまり、オスプレイの墜落事故が相次いでいて危ないから、という理由だと理解していました。それは確かに一面ではあるのですが「それだけ」じゃなかった。歴史をひもとくと、以前から決まっていた配備が沖縄の人々に知らされていなかった、など、この映画では「オスプレイは、県民を欺き続けた政府のたくらみの象徴ということなのだ」と言っていて、なるほど、そういう、根深い不信感というか、安全性以外の意味を背負っていたのだ、ということに気づき、強硬なまでの反対の理由が、私なりにすとんと落ちたのでした。

こちらも、沖縄の人々と付き合い、話を聞いていたつもりだったのに、この点に気付いていなかった、ということに、愕然としました。

上映終了後のあいさつで、映画に登場するキーパーソンの一人で、反対運動をしている安次嶺(あしみね)雪音さんが語っていました。「豊かな森で戦争訓練をしていることを許すのは、加担しているのと同じだと思った」。それを聞いて、なるほど、と頷くと同時に「知らないということも、広く言えば(自分が望まない現実に)加担しているのと同じではないか」と思ったのです。いえ、もっと思い切って言えば「知らないことは罪」なのではないかと。

そもそも、この映画の大きなテーマとなっているのが、2012年9月29日に、アメリカ軍の普天間基地が、完全に封鎖されたという前代未聞の事件。このことも、知らなかった。「日本」では知られていないらしい。基地のすべての入口を沖縄の人々が封鎖し、アメリカ兵と「Go home!」などと、互いに罵声を浴びせながら衝突している映像は「こんなことが日本で起こっていたとは」「これは本当に日本なのか」と驚かずにはいられませんでした。

ところで、安次嶺雪音さんは、なんと、松江出身!なんというご縁でしょう。高江地区でカフェ山甌(やまがめ)を、旦那さんとやっているそうです。ぜひ一度行ってみたい。この夏行こうかなあ。夏は高いな。冬か。

うちなんちゅ(沖縄の人)ばかり

「これは本当に日本か」と目を疑ったのは、先ほどの、アメリカ兵と沖縄の人の小競り合いもですが、もっと衝撃的で、胸が締め付けられたのは、沖縄の市民と、警察や防衛局の人が、激しく体を、怒りを、ぶつけあっている場面。同じ沖縄の人なのに。いや、警察や防衛局の人から感じたのは「怒り」というより、哀しみ、かな。哀しみをぶつけあっている、という方が近いかも。工事を進める人も「仕事しないと(給料)もらえないんです」というようなことを叫んでました。

「うちなんちゅ同士ばかりでこんなことしているんだよ」と泣きながら呼び掛ける住民の言葉、表情は、本当に胸が締め付けられました。レポートしている記者も「座り込んで反対する側も、排除しようとする県警も、それを伝える我々も、沖縄県民同士。なぜこんな場面を伝えなければならないのでしょうね…」と声を詰まらせていました。なぜ。

それを、若いアメリカ兵が、まるで「他人事」のように、半分笑いながら、見ている。良いとか悪いではなく、日本が置かれている状況、非対称性をはらんだ構造を、感じました。圧倒的に。理不尽というと陳腐ですが。

簡単には変わらないとしても、小さな一歩の方向性の連続が、未来をつくるのだとしたら、私はどう行動して一歩を踏み出せばいいのか、考え込んでしまいました。皆さんは、どう思いますか?

ちなみに、安次嶺雪音さんは「情報を自分で調べて、考えて」「何か島根でおこったときに声を挙げて」と言っておられましたですね。

最後に、ジャーナリスト的視点からの感想。埋もれている事実を、自分が描かなかったら表に出ないであろうことを表現して、世に出すのは、ジャーナリストとしてあるべき、素晴らしい仕事。リスペクトします。

そして、映像の力はすごい。最終盤、普天間基地の入口で、沖縄の人と機動隊がぶつかり合う中で、沖縄に伝わる民謡「安里屋ユンタ」を歌っていた女性の目の力強さ。こちらを射抜くような、カメラを真正面から見据えた視線の力強さに、圧倒されました。

テキスト(文字)を中心に表現している私としては、これを超えるテキストというものが、できるのだろうか、あるのだろうか、と自問してしまいます。悔しいけど、ないかも。。。ま、無理に同じ土俵で勝負して超えなくても、テキストだからできることを追求すればいいのか。いや、やっぱり映像表現もできるようになりたいな… 何だかぐちゃぐちゃでまとまっていませんが、こんな風に心を乱される、揺さぶられる、作品でした。