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初!新聞博物館見学

日本新聞博物館@横浜。新聞業界にいながら、実は足を運んだことがありませんでした。というより、正直、存在すら意識したことがなかった…(ゴメンナサイ)のでしたが、運営に携わっている日本ジャーナリスト教育センター(JCEJ)で、5月21日、見学会をすることになり、行って参りました!

意外にも、横浜の港に近く、何だかゴージャスな、というか、歴史を感じさせる建物内。お邪魔したときは、常設展示のほかに、共同通信社・ドイツ通信社合同写真展と、東日本大震災の報道写真展が開催されていました。

伝えたいという執念

圧巻だったのは、石巻市の地元紙、石巻日日新聞手書き壁新聞。震災で新聞が発行できなくなり、手書きの壁新聞を発行して、避難所などに貼ったという壁新聞です。ニュースで存在は知っていましたが、実物を見るのは初めて。しかも、震災翌日から6日間分という貴重な展示でした。

実物は、予想以上の大きさ。白い紙に、黒いマジックで書かれています。目に飛び込んできたのは、3月12日と13日付け、つまり震災翌日と翌々日の新聞の左側に赤字で書かれた「正確な情報で行動を!」被災者への切実なメッセージだということが伝わります。

そして、翌日こそ、被害の悲惨さを書いていますが、それ以降は、救援隊到着、電気ライフライン復旧(13日)全国から物資供給、安否情報が避難所の壁に貼られている(14日)ボランティアセンターオープン、炊き出し開始(15日)支え合いで乗り切って、全国からメッセージ(16日)、街に灯り広がる、避難所にも通電開始(17日)というように、被災者が必要としている情報ばかりが並んでいます。自分たちは誰に向けて書いているのか、その人たちはどんな情報を欲しているのか、ということに徹した紙面作りでした。

「今夜から冷え込む見込み」といった、被災者を気遣った気象情報も赤字で。社長自ら文字を書いている写真も展示されていました。とにかく、被災した人たちに伝えたい、伝えなきゃ、という執念にも似た迫力が、紙全体から立ち上ってきて、ぽろぽろと涙がこぼれてきました。当事者だから分かる部分もあるのでしょうが、同じ地方紙の記者として、同じ状況に立たされたときに、本当にここまでできるのか?何度も自分に問いかけました。現物を見ることができ、博物館に足を運ぶ価値があったと思いました。

これからも同じではない

もちろん、そのほかの展示も「へえー」の連続で、予想以上に、楽しめました。

幕末から現代まで日本の新聞の歩みを展示する歴史ゾーン。新聞の前身・かわらばんでは、妖怪出没情報もニュース(笑)また、新聞が批判を強めたために、政府が直接情報を伝える手段として官報を創刊したとの紹介には、なるほど!と興味深く感じました。禁止するより、自ら信頼できる情報を流す。現代にも通じるのかもしれませんね。発行禁止と戦い続けた高知新聞のエピソードや、明治30年の新聞は開戦と非開戦でそれぞれ論陣を張って、世論も盛り上がったこと、社会派キャンペーンを始めたのは戦後だったことなど、いろんな変遷があったのだなあとしみじみ。今の形、役割が過去も未来もそのままというわけではないのです。私自身も新聞と向き合う上で、形や枠にとらわれず、柔軟に考え、変わっていきたいな、と感じました。

展示について、欲を言えば、もう少し第2次世界大戦で新聞が果たした役割の検証が知りたかった、という点と、震災写真展も、日本の新聞に掲載されなかったような遺体安置所の写真なども、展示してほしかったな、という点が、ちょっぴり残念でした。

この日は約20人が参加してくださいました。午後2時に集合し、午後3時半の交流会まで、自由に見学するという流れでしたが、1時間半あるなら大丈夫かな、と余裕持ったのが大間違い。最初の共同・ドイツ合同写真展も含め、まったく時間が足りませんでした。またあらためて来よう!と誓ったのでした。